コラム>コラム
会員の近況報告 清友会の源流をたどる バックナンバー 
正義と官軍
弁護士 松 枝 迪 夫
 人間の行動を見ると、本音は欲と色で動いていると思われるが、名分は大義を掲げている。ここが人間と社会を洞察する鍵である。若い時分は、この辺がよくわからず、特に法律の勉強などすると世間を正義の通る所と勘違いしてしまう。しかし諺通り世間は「勝てば官軍」なのである。英語の諺でも「マイト イズ ライト(力は正義)」という。
 こういうと、何ということを言うのかと、弁護士諸氏に叱られそうであるが、ここは年の功で、私の妄言を暫時お許し願いたい。
 一般社会の生活でも表向きは正義に合致していると主張するし、訴訟の分野でも正義を標榜することは前に述べたが、問題は正義の内容が曖昧なことである。それが政治権力の世界となると一段と露骨に正義が主張される。
 幕末の歴史を思い起こして欲しい。徳川幕府を倒したいと薩長その他が考えたとき、彼らはまず尊皇主義を標榜した。この思想が徳川御三家の水戸藩で編纂した大日本史により培われたことは歴史の皮肉である。その論理では徳川は天皇に服属すべきだということになり、それが正義に適う道だとなる。折りしもペリー来航に象徴される西洋列強の開国要求が幕府につきつけられてきた。諸般の状況を冷静に見れば開港止むなしとなるのは当然の成り行きだった。そこを見透かしてこの機会に幕府を倒すために窮地に追い詰める理論を倒幕派は編み出した。それが実行が無理だと承知した上での攘夷論である。それに尊皇論を結びつけて尊皇攘夷論を主張する。
 攘夷論は当初は可能と思った者もいたろうが、列強の軍艦に示される強大な軍事力を知らされる内に、多くの攘夷論者はその不可なるを悟った。
 しかし、それを容認してしまうと尊皇攘夷のうちの、攘夷の理由付けがなくなってしまう。尊皇の方も、例えば後に徳川慶喜が実際に行なったように天皇に表向き主権を返上し(大政奉還、王政復古の形)、実権を裏で保持する形態を工夫して或る程度政権維持のできる余地がある。そこで、倒幕派は大義(正義)を自己の側にあるように見せかけるため、尊皇攘夷論の主張を変更しなかった(明治新政府が出来るや薩長の志士らはすぐ開国論になった)。こうした例は革命や戦争における大義がいかにいい加減なものかを如実に示している。
 もうひとつの例をあげてみたい。建武の中興といわれる南北朝時代のことである。
 私は個人的な興味で楠木正成の生き方を調べてきた。何人かの作家による時代小説もそれぞれ視点が異なり、また作家の人生観が現われて面白いのであるが(是非読まれることを奨めます)、楠木正成は大義に生きたのか、忠義の念で南朝の為に死んだのか、別の狙いがあったのかという点は作家により一様でない。ところで南北朝時代における正義の戦い程めまぐるしく変わるものは歴史上珍しい。それに比較したら幕末の尊皇攘夷論は遥かに単純だ。第二次大戦中(明治以来敗戦まで)私共は、足利尊氏は悪逆非道の男と習ってきたし、楠木正成は、大楠公の銅像となり湊川神社の祭神として祀られてきたが敗戦後はその評価は逆転した。私個人としても、鮮烈な戦後体験がある。第二次大戦敗戦により、米英を鬼畜といっていたのが手の裏を返して救世主のようにもてはやし、天皇制も悪い制度となり民主主義にとって代わられた。「正しいものは誤まりであり、誤まりとされるものも正しい」、「正義は不正義であり、不正義は正義である」と思うようになり、少し年月をおけば歴史が証明してくれると思うのである。
 この考えは、現在のイスラム教原理主義者の行動を見、毛沢東の中国革命の過程での所業、スターリンのソ連革命以後の独裁政治を見るにつけ、益々正しいと思う此の頃である。我が国の戦後の共産党の活動ぶりや全学連などの学生運動を見ても、この感を深くするのみである。(当時の若者は、スターリンや毛沢東を神の如く崇拝していた。ベトナム反戦運動のリーダー達もそうだった。)
 もともと物理の法則と違って、思想や文化現象には曖昧さがあって、真理か否か、正しいか否か決着がつかない。ああだこうだと裁判劇のように理屈をいくらでも並べることができ、あげくはそのままで終わりということが殆どの場合である。しかし、20世紀は幸いなことに、スターリン、毛沢東、それに第二次大戦で敗れた国側の、ドイツのヒットラーや日本軍国主義などの独裁思想が誤まりだということにはっきり決着をつけた。これは歴史上稀有のことで、私共の生き方の上で計り知れないご利益があったと言ってよい。法律家もこの事を心に刻んでおきたいものである。
 
 

BACK

to PAGE TOP

TOP PAGE