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第1回 清友会の歴史と私 (弁護士 鹿野琢見)
 平成13年6月19日(火)夕刻、秋山代表幹事と弊職は、鹿野琢見先生の事務所を訪問させていただきました。先生の事務所は、地下 鉄千代田線・根津駅池之端口を出て歩いて30秒という至近距離にあり、閑静でかつ下町情緒漂う町中にありました。
 鹿野先生からは、清友会の発足と発展の経緯について先生ご自身の関わりを中心に、お話を伺いました。その内容につきましては、先生からわざわざ書面でいただいたものがございますので、今回は、これを後記のとおり掲載し、訪問記とさせていただきます。
 先生は、現役でお仕事を続けられており、相手方準備書面に対し鋭い批判を開陳されたりして、弁護士魂を遺憾なく発揮されておられました。
 先生の美術関係のお趣味は大変有名ですが、先生はそのほか安重根の顕彰等にも尽力されておられ、その活動範囲の広さには驚くばかりでした。
 我々は、先生から約2時間弱貴重なお話を伺った後、先生の今後のさらなるご発展を祈念して、先生の事務所を後にしました。
 
    第二東京弁護士会
 
     清 友 会 の 歴 史 と 私
弁護士 鹿  野  琢  見
1、 私の弁護士人生の発足と昭和20〜40年代の二弁の動き

  幹事の方のご要望に接し、清友会の成立の由来と流れについて差し支えない範囲でお答えしたい。
[1]  復員後、大学、司試を経て昭和25年、私は修習生となったが、前期研修所4ヶ月を経て東京修習、そして弁護修習を二弁ということになり、椎名良一郎先生の事務所で修習することになった。丁度この年椎名先生は柴田武先生のあとを継いで二弁会長の地位にあった。
同先生は、当時弁護士歴25年、松竹株式会社顧問で、当時新富町にあった松竹本社近くに事務所があり、私はそこで在野法曹の実務と弁護士会の動きを体験した。この体験は、事後の弁護士生活に極めて貴重な関係があった。
[2]  27年3月修習を終わり、一旦裁判官を希望したが、任地の関係で希望を辞退し、4月末修習の縁で二弁に登録ということになった。前記椎名先生に相談し、同弁護士事務所のお手伝いを申し上げる(先生からは「閣外協力」といわれてお手伝いをした)ということで発足することになった。
[3]  二弁には、昭和25年頃、柴田・椎名両先生に対する批判勢力が台頭していた。柴田・椎名は会長のポストを盥まわしした、というような批判であった。
そして弁護士会長は、26年批判勢力を中心とした三輪寿壮、そして27年広井義臣各先輩が選ばれた。
[4]  その中、広井先生を擁立した人達や外地から引き揚げてきた山田璋、江原綱一先生らが中心となり、戦後初代の法務省人権擁護局長となった大室亮一先生を会長に推す動きが台頭した。この大室先生を推す動きは、中々その目的が達成できず苦しんだようであるが、そのグル−プは山田、江原グル−プ(仮にAグル−プとする)、広井、石井一郎グル−プ(仮にBグル−プとする)、近藤航一郎、牧野寿太郎グル−プ(仮にCグル−プとする)等三つか四つかのグル−プがあった。又大室先生の事務所の関係で、懸飛正雄、坂本雄三両先輩等のグル−プもあった。

2、 清友会の生成

[1]  昭和30年大室会長が実現したが、それ迄大室先生を推したグル−プの方々の中、山田璋、江原綱一、そして金井重男、坂本雄三各先輩等(適当な表現ではないかも知れないかが、主として官学関係の人々が多かった)Aグル−プの方々が中心となって「清らかに遊ぼう」、「清らかな友情を保とう」等として、清遊会或いは清友会が生成されていった。Bグル−プは日比谷クラブ、Cグル−プは朝日クラブとなった。
大室先生は、「みな私を推してくれてできた会であり、清友会も日比谷クラブも朝日クラブもみな同根であり、私が創立したのだ」等と言ったりして居られた。
[2]  私は、広井、石井グル−プの岩間幸平、岸星一両先輩が私たちの修習幹事だった縁で、日比谷クラブとも親しかったが、その中に、次第に山田璋、江原綱一郎両先生から声をかけられ、とくに個人的に私淑するようになった。
その中、当然二弁会長たるべき人物としてこの山田璋、江原綱一郎両先生の高い学識は大変すぐれて居り、とくに山田先生は幕末の碩学山田方谷の曾孫で、私の陸士時代の国漢の恩師石川梅次郎教授が戻っていた二松学舎にも関係深く、又江原綱一先生はリルケの詩の翻訳をものにしたり、法学博士の学位号を得たりで、これ又大変な学識の方であった。
[3]  清友会は、昭和36年山田先生を会長に当選させ、又副会長には江原、金井(重男)、坂本雄三、懸樋、川上義隆、そして私等が推されて当選した。
[4]  山田先生のあとの会長候補としては、江原綱一先生が衆目の見るところであったが、不幸にして昭和44年12月14日死亡さ、そのあとは金井重男、坂本雄三両先輩の何れか、ということになり、結局昭和47年と記憶するが、幹事会で金井先生が辞退なされ、清友会は坂本雄三先生を推すことに決定し、坂本先生も大いに意欲を燃やしていた。
その頃から清友会の中心は次第に修習生出身の中野慶治君あたりとなり、6期の川上義隆、4期の私、それにヤメ検の池隆憲各君らが力を入れてくれた。

3、 清友会と私の会長選挙

[1]  ところが、その後会内に多少の動揺があり、その中昭和50年5月8日坂本先生の死亡という極めて不幸な事態があったりして、会長候補のお鉢がいつの間にか私に廻ってきた。しかし、私自身は、私なりに弁護士論、弁護士観を考え、私なりの弁護士会活動をすすめたい、と念願し、多少勉強にこれつとめ弁護士論につい ては派閥を超えて二弁の大先輩真野毅先生を訪ねてそのご指導を 仰いだりし乍ら、
 昭和48年 関弁連創立20周年記念募集論文「関弁連のあり方」
 昭和51年 弁護士制度百年記念募集論文「弁護士の社会的責務」
 昭和54年 日弁連創立30年記念募集論文「これからの弁護士」
に応募して夫々第1位となり、また一方、内なる清友会も山田璋、金井重夫両先生を長老として、多賀健次郎、鈴木秀男、小野淳彦、斉藤昌男等誇り得る中核を得、組織固めと拡充とをはかった。
私は、家内とも相談し、又清友会を中核とする方々の支援を得て会長選挙に出馬することになった。このとき同期で選挙のベテランの水本民雄君、副会長仲間だった原長一君(7期)らが親身に協力してくれた。
[2]  しかしそれからが大変で、複雑な対人関係の経緯があり、昭和58年春、私は個人的に悩みに悩み、そして会長選挙を辞退し、又清友会活動からも退き、自分の事務所に蟄居し、今後のことについて悩んだりもした。このときある日曜日に私のことを心配して弥生町の拙宅を訪ねてくれたのが、山田璋先生であり、又心配して声をかけてくれたのが大学の先輩坂本吉勝先生であった。
このときにおける山田先生との関係は、とくに昭和61年3月発行二弁会報「創立60周年記念特集号」の拙稿「山田璋先生」に記している。
[3]  そして私は、思案の末清友会活動から一切退き、すぐれた仲間たちである多賀、鈴木、小野、斉藤そして坂本雄三先輩の女婿立石邦男さんたちにそれを委ねることになっていった。

4 、 その後のこと

 以後、私は心機一転、私なりに日常の弁護士活動に専念する外に、傍ら一歩退いて若い頃から平常考えていた
(1)  趣味の美術関係 弥生美術館 竹久夢二美術館 そして立原道造記念館の活動
(2)  韓国人安重根関係 日本国安重根研究会副会長 次いで会長
(3)  陸士先輩若林東一、加えて陸士榊原主計生徒隊長の慰霊活動
を中心に、なるべく日月の閑を得よう等とつとめるようになった。 しかし、それも中々思うように充分果たせないでいるこの頃である。

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