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第3回 金井正人先生・事務所訪問記
     金井正人先生・事務所訪問記
インタビュアー 若林 柳楽
 
第2部 清友会のこと
1、 清友会の草創期
  (鹿野先生にお聞きしたところ、昭和25年ころ、当時の二弁会長に対して会長のポストをたらい回ししたという批判勢力が台頭し、26年と27年には批判勢力を中心とした方が会長になられたと。そういう中で、大室亮一先生を会長に推す動きが台頭したが、その数は3つか4つであった。昭和30年に大室会長が実現したが、大室会長を推したグループの1つが「清らかに遊ぼう」「清らかな友情を保とう」として清遊会・清友会が出来ていったということをおっしゃっていましたが、先生はこのころのお話しをお聞きになったことがありますか)

それは聞いたことがある。大室先生を推すために集まったような派閥のようだったのですね。

(記録をみますと、昭和30年には大室先生が会長になられて、同時に山田璋先生が常議員会議長になられています。そして、そのころ清友会が一つの派閥として成立するようになったとも言われています。先生は大室先生にはお会いになられたことはあるのでしょうか)

お会いしているのでしょうけれど、もうお顔はちょっと思い出せませんね。
   
2、 清友会の活動
  (清友会はどのような活動をしてきたのでしょうか)

僕の入会当時から、清友会は、会務を熱心にやっていました。
徳永先生も日弁連事務次長をやったし、鹿野先生は会務に非常に熱心な先生でした。
   
3、 清友会の諸先生の思い出
  (清友会会員の諸先生の思い出ということでお話しいただけますか)

(1) 徳永昭三先生のこと
(徳永先生は昭和50年に副会長をされていますが、どのような方だったのでしょうか)

徳永先生は、一応清友会のメンバーになっている岩城武治先生たちと、銀座の数寄屋橋のほうで事務所を構えておられました 事務所には他に須藤先生、山田和男先生もおられて、4人で事務所をもたれていた。
徳永先生は、体が大きい方でした、肥後もっこすかな。

(熊本の方ですか)

うんうん。

(昔の清友会報に、徳永先生は、昭和3年生まれの熊本県ご出身で、少年時代は九州男児として過ごされたということが書かれています)

いかにも九州男児という感じでしたね。口数は少ないけれど、何回か会内の他の先生と論戦、紙上バトルをやったことがありましたよ。

(ほうー)

全友のボスの古賀正義先生(注釈:昭和47年二弁会長)なんかとやったものは有名な逸話になっています。その他、徳永先生は、確か、鹿野先生と、会報の上か会員に配布する文書で、論戦をやったことがあるはずですね。会員は会務を地道にやっていたけれど、そういう議論も盛んにやっていた記憶がありますね。

(平成3年に帝国ホテルで徳永昭三先生の全快祝いと励ます会があったということが昔の清友会報に載っていたのをみたことがあるのですが、これはどういうことで開かれたのでしょうか)

舌ガンだったかな、それの全快祝いだった。

(2) 山田璋先生のこと
(山田璋先生は、記録によりますと、昭和30年二弁常議員議長、昭和36年二弁会長をされていますが、先生の思い出としてはどういうものがありますか)

山田先生が会務をされていたかどうか分からないが、清友会の集まりにはよく来られていました。豪放な方でしたね。全く親分肌の人でした。

(江戸時代の碩学のご子孫で、非常に漢文の才学がある方とお聞きしたことがありますが)

そういうふうな風貌の方でしたね。学者的というより、維新の志士みたいでしたね。

(燃えた方だったんですか)

ときどき大声出してましたね(小笑)。そういえば、山田先生は日本クラブという紳士クラブに属していて、うちのおやじも多賀先生も晩年そこに属していました。そしてそこが日本法曹クラブの溜り場だったのです。

(3) 鹿野琢見先生のこと
(鹿野先生は、清友会の事務所訪問記第1回でお話をうかがい、金井先生が第2回なのですが、鹿野先生のことについて昔を振り返られてお話いただけますか)

鹿野先生は副会長になられましたが(注釈:昭和44年)、その少し前に入ってこられたんですよ、副会長になられてから後の方が熱心に会務をされていました。それまで川上先生なんかの方が、清友会員としては長くやっていたんです。

(4) 坂本雄三先生のこと
 (昭和33年に二弁の副会長をされた坂本雄三先生についてお話しいただけますか)

いろいろな委員会の委員長をされたり、明治大学女子部で教鞭をとられたり、それから清友会にも毎回必ず出て来られていました。

(5) 金井正人先生のお父様の金井重男先生のこと
 (先生のお父様は昭和46年に二弁の常議員会議長をされていますが…)

その他いろいろな役職についていた。副会長もやっていました(注釈:昭和39年二弁副会長)。
川上先生が出て行く直前におやじは会長に立候補したんですがね、そのときの選挙の幹事長が川上先生だった。うちのおやじがね、胃潰瘍の持病があったんですよ。酒を飲むものだからね。正式の立候補じゃないけれども、まあ、翌年は立つということでだいたい会長選挙の戦いが始まるころになって胃潰瘍が再発しちゃってね。それでドクターストップで辞めたんです。これは新風が出て行く1、2年前の話ですね。
その後坂本雄三先生が立った。小川先生が副会長をやった(注釈:昭和51年)後、新風が出て行って、それで木戸口先生が会長になられた(注釈:昭和56年)。

(6) 江原綱一先生のこと(二弁合唱団の集まり、二弁のダンスパーティー)
 (清友会に属されていた先生で江原綱一先生がおられますが、江原先生はどのような方だったんでしょうか)

筒井健先生のボス親分でしょう。霞ヶ関法律事務所。当時は、いち早くいい名前をとっちゃって、それで霞ヶ関法律事務所と言ったんです
江原先生は外交官出身でね。清友会に入る前に江原先生から誘われてね。最高裁判事になった坂本吉勝先生とかね、それから入江一郎先生という独禁法特許関係で著名な先生とか、そういう大家に誘われて、二弁でもって合唱団を創ろうと言われてね、しばらく少人数で集まって歌を歌っていたことがあったんですよ。

(金井先生も入られていたんですか)

そうそう、そのとき、江原先生たちに誘われた。今から考えると、錚々たる先生だったね。

(今ではカラオケなんかやってますが、合唱団の方が健全でいいのかもしれないですね)

坂本吉勝先生は清友会ではなかったね。江原先生だけは清友だった。
合唱団は二弁の横断的な会だったですね。
 その少し前までは、土屋公献先生なんかがやっていたものですが、二弁の中で、ダンスパーティーがあったんですよ。

(へー)

講堂でね。

(あの、旧会館3階の)

そこに、若い弁護士とそれから弁護士さんの娘さん達を集めて…。

(あ、ベテラン弁護士さんのお嬢様との出会いの会…)

うん、何回か開かれたらしいけどね、私は1回も出なかった。二弁も昔はハイカラだったんですよ。

(7) 多賀健次郎先生のこと
(多賀健次郎先生は、昭和48年に監事をされて、昭和49年に副会長をされています。私(若林)が清友会に入った平成4年ころ、多賀先生は清友総会ではいつも真ん中の席に座られていて本当に豪放磊落な方と思ったのですが…)

多賀先生は山田先生より横幅は小さかったが、まあ背は多賀先生の方が高かったですね。いかにも帝国軍人らしいきっぷのよい方でした。
   
4、 清友会の分裂(?)
  (昭和56年ころ、新風会ができたと聞いていますが、そのきっかけなどの話を、差し支えない範囲で、お聞きしたいのですが…)

川上先生はだいたい鹿野先生と同じくらいの期で(注釈:川上先生は6期、鹿野先生は4期)、清友会の中でも、2人でもって幹事長クラスを拮抗していました。ただ、もともとは川上先生の方が、会務での活動が古い。
川上先生は二弁副会長になって(注釈:昭和41年)、その後木戸口先生が副会長になった(注釈:昭和43年)、その頃はもちろん新風会なんてなかった。鹿野先生がそのころ清友会に入ってこられて、副会長をされて(注釈:昭和44年)、それで鹿野先生があまりにも熱心だから、なんか川上先生が鹿野先生に追い越されたような格好になったんだよね。で、二人の仲がおかしくなっちゃって。それで、川上先生が、何人かの若手を連れて出て行ってしまったということです。
そういう中に、木戸口先生、土屋公献先生(注:昭和49年副会長)、中津靖夫先生(注釈:昭和52年副会長)、石黒竹男先生(注釈:昭和55年副会長)らがおられました。出て行った人たちが、新風会から会長を出すんだと張り切って、木戸口先生を会長にした(注釈:昭和56年)。木戸口会長を推すために新風会ができたのではありません。

(現在も、他の会派のベテラン会員で、清友会と新風会とを区別しないで清友会だと言う方もいらっしゃるのですが、出て行った方は新風会という名前を出されたのですか)

そうそう。出て行った後に新風会という名前を創設されたんです。

(先生が副会長になられたときに、選挙はあったのでしょうか。新風さんとの形はどういったものだったのでしょうか)

選挙はなかった。新風とはああいった形で別れたにもかかわらず、やっぱり連合みたいな形で、私の副会長立候補を決める会合を開いたときには土屋公献先生が川上新風会会長の書面を持って来られ、私どもの会合で読み上げて応援してくれましたよ。

(現在、三派連合と言われることもあって、清友会、新風会、日本法曹クラブが三派で一つの固まりと見られることもあるのですが、当時は、日本法曹クラブさんはどのような位置であったのでしょうか)

そのころは、日本法曹クラブまで入っていなかった。もともと日本法曹クラブとは仲がよかったんです。だけど、当初三派連合を話しかけたころには、日本法曹クラブは、まだそんなに清友には近づいてこなかった。むしろ紫水に近かったと思うんですけどね。

(そうすると、今では清友会が分裂したなんていう言い方がなされる場合もあるわけですが、とことん別れてしまったわけではなくて、二弁の中でお互いの立場を考えつつ、その勢力も残しておくというような感じだったのでしょうか。)

そうね。一回もお互いにいがみあったことはありません。まあ、そのうちに交互に候補を立てようというふうな暗黙の了解ができたにもかかわらず、どうも新風の方が多いとかね。会長がすべて新風から出てるとかね。そんな不満が…。

(徐々に出てきたということですか)

うん。清友会内では語られたことがあったけれども、表だって新風とけんかしたことはないんです。むしろ、別れた後には、新風はその存在意義を示すためか、どうしても会長を出すんだと言って頑張ったから会長が実現したんです。

(その後、新風さんとのお付き合いはあるのですが、深いお付き合いというのはあまり聞いていないのですが)

そうですね。ゴルフぐらいだもんね。

(O先生が副会長になられたときは選挙になったとお聞きしていますが、新風会さんも、O先生に協力してくれたのでしょうか)

O先生のときは選挙したんだよね。もちろん新風会さんも協力してくれたと思いますよ。
   
5、 清友総会
  (昔の清友総会はどのようなものだったのでしょうか)

今は銀座らん月で清友会の総会をしているが、昔は、旧会館の下の「大平」でしていました。

(大平は昔からドジョウの定食が評判だったんでしょうか)

一番の評判でしたね。
ただ、元はもっと贅沢に、麹町の福田屋なんて所に行ったこともあった。
   
6、 昔の清友会報
 

(昔の清友会報はどのようなものだったのでしょうか)

昔の清友会報はね、ショウライという名前でしたね

(どういう字を書いていたのでしょうか)

松に竹冠に頼むに似た難しい字で、「松籟」ですね。

(先生は昔の清友会報をお持ちですか)

「松籟」はあるかもしれないね。表紙はね、鹿野先生たちが、描かれたことがあった。

(「自由と正義」の表紙に鹿野先生が新しい弁護士会館のスケッチを描かれていたことがありましたが(注釈:平成7年10月号と同年12月号)…、「松籟」という名前はだれが考えられたのでしょうか)

そういう名前は、山田璋先生あたりが、考えたのではないかと思いますね。

(やっぱり漢学あたりからくるのでしょうか。ところで、会報は年に1回くらい出ていたのでしょうか)

あんまり多くは出なかったと思うけどね。

(私(若林)が出るようになったころに既にあった清友会の会規には、年に1回くらい出すと書いてあって、会報の係が出さないといけないというようなことも書いてありましたが、昔はどうだったのでしょうか)

年1回が限界だね。昔はそんなきちんと定期的にやっていなかったと思いますよ。

(やっぱり選挙がらみとか、行事がらみということだったのでしょうか)

いや、そういう、目的よりも、本当に俳句を載っけたり、ドイツ語を駆使した文を載せたり、本当に文芸誌みたいだったと思います。

(かえってそういうほうがいいかもしれないですね、なんか生臭い話より、各自の趣味とか、優雅なところを掲載するのもいいですね)

でも、本当に、選挙派閥がありませんでしたからね。

(なるほど)


(本日は、長い間、大変貴重なお話しをありがとうございました)
第1部 金井先生ご自身のこと

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