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第3回 金井正人先生・事務所訪問記
     金井正人先生・事務所訪問記
インタビュアー 若林 柳楽
 
第1部 金井先生ご自身のこと
1、 司法修習と弁護士登録
  (先生は司法修習は19期とお聞きしていますが、弁護士登録はいつだったのでしょうか)
昭和42年でした。
   
2、 所属事務所
  (先生は、弁護士登録されて、どこの事務所に入られたのでしょうか)

ここ(有楽町東京交通会館内)の「清原・山下法律事務所」に入りました。今は、「福田・金井法律事務所」と言っています。

(先生は、お父様の事務所には入らなかったのですか)

父の事務所には入らなかったのです。検察教官の紹介で、この事務所で修行させて貰うつもりでこの事務所に入ったのです。

(先生が入られた事務所のボスはどのような方だったのでしょうか)

清原先生は、検察官をしていたが、戦後一遍弁護士になって、また検察庁に戻って検事総長をされ、私が入ったときには、退官されて弁護士登録をしておられたが、一緒に仕事をしたことはありません。山下先生も検察官出身の人でしたが、実質はこの先生がボスでした。
   
3、 清友会への入会
  (先生は、弁護士登録後すぐに清友会に入会されたのでしょうか)

すぐに入会したわけではありません。おやじから入れって言われたこともなく、最初は無派閥を標榜していたんだけれど、おやじが清友会にずっといたものだから、会員からは清友会だろうと色分けされていました。
当時は、正式に入会申し込みしてもらうという形ではなく、なんとなくいらっしゃいよということでした。 

(先生が弁護士登録された頃、清友会には、先生のお父様の外、どのような先生がおられましたか)

当時の代表幹事は、山田璋先生でした。会には、鹿野琢見先生、小川景士先生、徳永昭三先生とかがおられました。坂本雄三先生、江原綱一先生、多賀健次郎先生、新風に行った川上義隆先生らもおられましたね。
   
4、 委員会活動
  (先生は委員会活動はどのようにして入られていったのでしょうか)

清友会に入るよう誘われるようになって、清友会の先生が、あの委員会に推薦しておいたからとか、あれは面白いからやったらどうかと言われまして、いろいろな委員を引き受けさせられるようになりました。やってみて初めていろいろな会務があることが分かったし、やっぱりそういう貢献もしなくちゃいけないんだということを、だんだんと自覚させられてね。それで清友会にもだんだんと顔を出すようになってきたんです。それでいつの間にか清友会としての活動をやっていたということです。

(先生はどのような会務をされていたのでしょうか)

僕が会務をやり始めたころ、委員会は10くらいあったかな。僕が委員長までやったので、公害対策というのがあった。今ではなくなってしまったけれど(注釈:現在は、公害・環境委員会という名称になっています)

昭和40年代当時は、ゴミ処理場問題だとか、大気汚染問題なんかがありました。ちょうど、杉並ゴミ処理場をつくるかどうかというのでね、美濃部都知事が各区にみんなゴミ処理場をつくるんだと言って、ゴミ問題が大騒ぎになったことがありました。

(なんかありました。その区によってはゴミ処理場がないところがあって、山の手のどこかから下町のほうにゴミを回して燃やしてもらうというのはおかしい、自前でゴミ処理をすべきだとかいうことがありました。)

お台場あたりのごみ捨て場だったでしょうか。杉並から来るゴミ収集車をね。ゴミを捨てさせないというのでデモをやって追い返したことがあります。そのときに、二弁として、どういう解決方法をとるのが妥当なのかということを検討して、都のゴミ処理場だとか、ゴミ捨て場を見学に行ったり、いろいろな説明を聞いたりしました。でもやはりあのころから、やっぱり分別、リサイクル、そういう方向に持っていかなきゃだめだということを、弁護士会として提言したんです。実際、そのようになったのが、もうそれから20年くらい経ってからでしたけどね。

(そうですね。昔はもう全部一緒に出していましたですけどね)

我々は、そういう提言をしながら、そんなことが実現できるのかと思っていたけれど、やっぱりやらざるを得なくなった、制度化されるんですね。

(昭和40年代は、今以上に公害問題が非常に大きな問題として言われていたように思います。大気汚染とか四大公害病裁判とかなんかがありました)。

あの裁判も始まっていましたね。僕が委員長のときには、都内ではゴミの問題はもうゴミ戦争とまで言われていましたので、委員会では一番それに多くの時間を費やしていました。

(そのころ、その委員会は部会というものがありましたか)

部会もありました。大気汚染だとか、いろいろな河川の汚染だとか、そういうふうな部会に分かれていました。

(先生は、そのほかどうような会務をされたのでしょうか)

会規制定委員会に平委員から入っていました。それから綱紀委員をやってね。司法修習も副委員長でやったかな、幹事をやると面白いんだけどね。

(修習生の生きのいい人とつながりができて、僕はやったことがないのですが、同じ会の人に修習生を紹介するという話をよく聞きます)

そうそう、井元君(注釈:平成14年二弁会長・井元義久先生)なんてね、幹事でした。委員会活動をやり始めて、いろいろな会派から委員が出て来るでしょう。一緒になって活動をしていると、みんなやはり連帯感ができるんだよね。

(そうですね。そういうつながりが大事ですね)

うん。確か、公害対策委員会のね、僕が副委員長をやっていた時の委員長が斎藤浩二先生(注釈:平成4年二弁会長・紫水会)でしたね。その斎藤先生が会長をされたときに、僕は日弁連事務次長に推薦されたのです。

(そこは、やっぱり会務をきちんとやっているとそういうふうに、推薦してくださるということなんでしょうか)

そこは、もう会務を越えてですよ。そういう人事のときはね。僕もうちの会の会長はいなかったから。それからうちから出した副会長からなんか頼まれたことはないよ。だけど、みんなほかの派閥の会長から、なんかやってくれないかということで、随分頼まれました。
   
5、 副会長時代
  (先生は、昭和59年に二弁の副会長をされていますが、その話はどういう形で来たのでしょうか)

これは清友会の中で鹿野先生だとか徳永先生あたりが順番からいって適当なんじゃないかと言って立候補するようにという話だった。時期的には、59年の4月から副会長をしたから、58年ころから立候補の話があって、59年の1月に立候補の届け出をしました。

(そのころの代表幹事はどなただったんでしょうか)

まだおやじが生きていて、鹿野先生たちから話があったのだけれど、代表幹事はうちのおやじだったかもしれない。

(先生が副会長をされていたとき、会長は野宮先生(注釈:五月会)でしたが、先生以外の副会長はどなただったのでしょうか)

当時の副会長は現在とは違って4名でした。僕の外は、大平恵吾先生(注釈:日比谷クラブ・14期)、尾崎昭夫先生(注釈:紫水会・17期)、富永赳夫先生(注釈:全友会・22期)でした。

(先生は副会長としてどのような委員会をご担当されたのでしょうか)

一般の委員会がほとんどですね。大平さんが筆頭だから人事とか全般をみて、次席の尾崎さんが経理等を担当していて、三席の私と四席の富永さんとでもってほとんどの委員会を持っていました。
そのころ、第一次外弁問題があって、単位会としてその意見を日弁連にあげなければいけないということで、僕はその担当をしていました。
   
6、 日弁連事務次長時代
  (先生が日弁連事務次長時代のことをお聞かせいただけますか)

日弁連の事務次長は、平成5年、6年とやりました。最初は阿部三郎会長のときでその次が土屋公献会長でした。
そのころ日弁連の会館の移転のことをいろいろやっていましたね。大蔵省と寄付の免税の交渉とか。
僕が辞めたあと平成7年かな、会館が移ったんです。ですから旧会館の一番最後のときの事務次長です。

(二弁の副会長と日弁連の事務次長はどちらが大変だったのでしょうか)

二弁の副会長よりも日弁連の事務次長の方がずっと大変でした。
日弁連の事務次長のときは、個人的な事件などほとんどできませんでした。任期2年の間、新しい事件を受任しないから、事務次長の任務が終わったころには事件がなくなっちゃうんですよ。僕が誘われたときにね、ちょうど大きな事件が2件片付いてね、ちょっとほっとしたところで、事務次長をやってくれないかと言ってきたから、ちょうど手隙になったと思ってね、前の年、おやじも死んでたしね、その隙をちょうどつかれてね、うっかりいいよって言ってしまったんだよね。就任して直ぐ後悔したけれど、やっているうちに段々面白くなってしまった(笑)。

(日本全国を回るって言う話をきいたことがあるのですが)

それは、例えば人権大会とか、民暴の大会、それから業務対策のシンポジウムだとかね、それから各地方の弁連の総会、各種委員会の連絡協議会、対策本部の会合などに行く場合のことですね。あのころは事務次長は2人でしたからね、2人で回っていた。現在は5人ですが、当時は2人で、1年交替でね、全部の委員会を担当するんです。
それから海外の委員会にも半分づつ顔を出していた。全部経過を見ているから、そういう委員会にも出るでしょう。それから本来の毎日の金銭の出納をハンコを押したり、職員の業務を見てボーナスの評価をしたり、春闘の団体交渉をしたり、職員の新しい採用などもしていました

(事務次長のとき苦労された思いでとしてどういうことがありますか)

僕が日弁連事務次長のときに、第二次外弁戦争があって、これは大変だった。宮澤総理がアメリカの大統領に弁護士業務を開放するんだということを約束されて、トップダウンで開放が至上命令ということで、どういう制度にするかってすったもんだやった。僕が日弁連事務次長になったときにもう政治問題化していたから、それを担当でやれと言われて、普通は1年でちょうど半分の委員会を持って、後任の事務次長に入れ替わるんですが、僕は外弁問題を2年通してやってね、で、一番最後に最近までやってきた共同事業方式、あれを制度化して何とか形を整えたんだね。

(第1次があってから、第2次ですから、大変だったんでしょうね)

うん。最初に言われたときはいったいどういうふうに片付くのかなと思いました。これは、アメリカの圧力で急に政治問題化したんです。しかし、一遍落ち着けば海外でも暫くはワーワー言わなくなるんです。だけど、あのときには、結局、共同経営と日本人弁護士の雇用は認めなかったもんだからね、ずーと言い続けていましたけど、今回、とうとうそれに屈服してしまったわけです。あの当時、英国の大使が日本に着任する、日弁連に挨拶に来るというんですよ。外国の大使が日本に来るとみな日弁連に挨拶に来るのかなと思って、自分たちの立場はそんな偉いのなかなと思っていたら、挨拶するなり、弁護士を開放しなさいと言われてね、英国大使がね、そういう圧力をかけにくるわけですよ(笑)。
もちろん、日弁連に入ってみて驚いたことは、毎日のように海外からお客さんがあるんです。いろいろな国の法務大臣が来り、NGOの人がやってくる、そして南米だのアフリカだのそういうところの人が人権問題を持ってきてね、「日弁連で決議して、送ってください」と。「海外からの監視があると、殺されないで済む」んだってね、みんな政治犯で捕まってしまっていていつ殺されるかもしれないと、だから何とか日弁連の圧力で助けてくれというわけでね、そういう話は日常続いていましたね。そこで、国際人権委員会なんていうのは、毎日そういうものの決議をしていて、日弁連の名前でもって送るということをやっているんです。だから、僕が入った年ぐらいに、日弁連も国連の人権委員会にNGOとして出るようになりました。日弁連の委員会の人が、必ず派遣されて傍聴に行っていますし、ときには発言する機会もあるのです。僕もあそこへ入るまではね、弁護士会がそんな活動までやっているとは、知りませんでした。我々の会費は、直接我々の利益になるかどうかは分からないけれど、非常に次元の高いところで使われているということです。
僕がいたころはちょうど中国がだんだん市場を開放し始めて法整備をしていく時期だったものですから、中国からもたくさんの法律家がやってきました。法務大臣という立場の人もいますし、弁護士会の会長みたいな人もいました。もっとも、弁護士会といったって、弁護士の任命制度がきちんと出来ていた訳じゃないようで、弁護士と言っても政府の任命で学校の先生をやっていた人だとか、ちょっとしたインテリをそういうものに仕立てようというふうな時期だったろうと思うんですね。来ると、日本の法律を何でもください、くださいと言ってね、経済関係の法律はみんなそのまま持っていきましたよ。それを参考にしてどんどん法律を作っていったのでしょうけどね。文化大革命で、インテリがみんな殺されちゃったからね。

(司法改革はどんな段階だったのでしょうか)

僕が日弁連にいたとき、司法改革も始まっていました。前の年に中坊さんが会長やっていましたから、日弁連からの提案というのがたくさんありました。ただし、3000名に増やすだの、ロースクールを創るのだとか、そういう話は一言もまだ話題にはなっていなかった。あれから10年足らずでこういう問題が突如として起こって制度化されてしまうというのは本当に政治の動きというのは面白いですね。なんかきっかけがあると、ガーッと動き出すんですよね。
日弁連は日本の政治を変える、制度を変える、そういう力があるんですよ。今度の司法制度改革も、まさしくあのころから、日弁連が盛んにわめいていたことが現実化してきているわけでね。もちろん行き過ぎてしまったもんだから日弁連の中の一部の人たちは今度は逆に裁判員制度は彼らに利用されているんだとか言って反対しだしたけれどね、もともとは自分らが陪審制度を採用しろと主張していたことなんです。
僕らのときには、ちょうど外弁の圧力なんかがあったから、法務省と弁護士会はお互い一緒に、共同して新しい制度を考えなきゃならんという連帯感もありましたけれど、一部対立的な、法務省なんかは共同事務所を認めたっていいじゃないかと、そういう政府の意向に沿って改革を進めようとしていた面もある。僕らは、いやそんなことしたら、日本の弁護士業界が抑えられちゃったら、若い優秀な人はみんな、アメリカのローファームに行ってしまうんじゃないか、グローバルな活動ができて経済的にもいいアメリカ企業の味方をしたほうがいいってことになっちゃうんじゃないかと思った。
(司法改革は、司法をアメリカナイズすることで捉える文脈がありますが)僕は、日弁連にいて、弁護士としては、まさに国難だと思いましたよ。「黒船来(きた)る」です。アメリカのローファームが自由に日本で活動できるなんていう話でしたからね。今度の司法改革はますますアメリカナイズされていってしまうだろうと思うんだけれど、アメリカはもっと日本の市場が自分たちの利益になると思って期待していたんだろうけれど、日本のバブルが崩壊してしまったから意外にうまみがないんで、今は日本よりも中国あたりに目を向けているらしいんです。その意味ではあまりローファームができるということでもないかもしれません。一方で、日本人もああいうローファームみたいなところへ入って腕を磨いて、逆にこちらかも世界に出て行くというふうな力を持たねばだめだろうと、いずれはそこまで弁護士が力を持ってこなければだめだろうと思いますから、その意味では開放はやむを得ないかもしれない。ただし、あのころはまだ時期尚早だということで頑張ったんです。
あのころ、香港が、中国へ返還される前に、外弁制度を創りまして、共同経営は許さない、事務所と事務所の共同事業ならば認める、そういう制度を創ったことを聞きましたので、それで僕と外弁の委員会の先生とで調査に行ったんですよ。それで、あそこでやった方式を学んできましてね、それで行こうじゃないかと、これしか曲がりなりにも開放する方法はないだろうということで、委員会に提案したんです。あのころでも法務省は香港と日本じゃ、経済規模が違うから、アメリカが承知しっこないよなんて言っていましたね。日弁連の中でもそういうふうに言われたこともありましたが、結局、米英も認めました。せめて、そこで防いだというか、いったんはそこで外弁に諦めさせたんですよ。

(それは大きな仕事でしたねえ)

ええ、直接日弁連が外交交渉に出ましたからね。
第2部 清友会のこと

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